ホーム > 聖書の学び > 善8
←トップへ戻る ←聖書の学びへ戻る  || ←戻る(7) << 善8 >> 次へ(9)→

善 8

「使徒パウロの善(1)」

読むみことば: 第一コリント15:9-10
覚えるみことば: 第一コリント15:10
参考にするみことば: 第二コリント11:23-27
教育目標: 一度受けた恵みが変わらなかった使徒パウロの善を見ならい、終わりの時、聖霊の道具として尊く使われる聖徒になる。
 使徒パウロはタルソ出身で、ベニヤミンの分かれの者であり、きっすいのヘブル人であり、律法についてはパリサイ人でした。彼は熱心なユダヤ教の信者として、一時イエス・キリストを信じる人々を迫害して、牢に入れ、殺すことに先立っていた人です。しかし、ダマスコで主に出会って回心してからは、数多くの人々に福音を伝えて、多くの教会を建てただけでなく、世界宣教の基盤を備えた異邦人の偉大な使徒になりました。敵のためにいのちも与えられる最高の善の次元に至り、行く所ではどこでも神の力あるわざを現して、神に大いに栄光を帰しました。
 それでは、神を感動させた使徒パウロの善について調べてみましょう。

1. 神の摂理によって選び分けられた使徒パウロ

 使徒パウロは義がとても強い人であって、自分が持っていた知識と義をもって相手を言い負かすことが好きで、弁論を好んだ人です。しかも、<使徒22:3>に記されているように、当代最高のガマリエルのもとで律法について厳格な教育を受け、神に対して熱心でした。それで、イエス様が神の御子であり、救い主であるということがどうしても自分の義には合わなかったし、ただ黙認して見過ごすことができなかったので、イエスを信じる人々を捕らえることに先立ちました。
  神は、自分の義が強いけれど、一度正しいと悟ったら移り変わることのない心を持っていたパウロに、恵みの体験をすることを許されました。彼がダマスコという町にまでイエスを信じる者たちを捕らえようと遠征している途中で、主が出会ってくださったのです。パウロの別名はサウロでした。主が「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」と言われる声を聞きました。
  このことがあってから、パウロは三日の間、目が見えず、また飲み食いもしないようになります。そして、アナニヤを通して、自分に向けられた神の摂理を知るようになります。つまり、イエス・キリストの名を異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶように選ばれたということです。結局、パウロはダマスコに行って、イエスを信じる人々を迫害したのではなく、かえってイエスがキリストであることを認めないユダヤ人たちをうろたえさせました(使徒9:22)。

2. 主の恵みに対する感謝がどんな状況でも移り変わらなかったパウロの善

 使徒パウロは、罪人たちを救うために自分を完全に犠牲にされたイエス様の大いなる愛を悟るようになると、まるで自分が「罪人のかしら」のように思われました。そんな自分のすべての咎と罪を赦して、救ってくださっただけでなく、かえって尊い使命を与えられた主の恵みに深く感謝するしかありませんでした。このような感謝の心はどんな状況でも決して変わりませんでした。むごい迫害と困難にあえばあうほど、さらに深くて濃い感謝の告白が出てきたのです。
  使徒パウロが受けた苦しみについては、<第二コリント11:23-27>によく書かれています。「私の労苦は彼らよりも多く、牢に入れられたことも多く、また、むち打たれたことは数えきれず、死に直面したこともしばしばでした。ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」
  このように使徒パウロは死に至るまで忠実であって、多くの苦しみを受けましたが、心の底からは主の恵みと愛に対する感謝が限りなく、さらに濃く流れ出ました。いくら困難な状況でも悲しがったり気を落としたりしなかったし、深い牢や難船の危険も問題になりませんでした。かえって前に向かって進めるようにするむちと思って、多くの報いを積むようにされ、主の恵みに報いられる機会を与えてくださったことに心から感謝しました。

  ある人たちは「私も主の恵みに感謝して、初めて信じた時から今まで、その心が変わりませんでした」と告白しますが、はたしてパウロの告白と比べられるでしょうか? 主の恵みに感謝して生きると言いますが、はたしてパウロのような苦しみを受けることが許されるとき、パウロのように心から感謝できる人がどれほどいるでしょうか? パウロの苦しみに比べたら苦しみとも言えない小さい困難にも、すぐ絶望して気を落とさなかったでしょうか? 神の国に忠実であって、すべてをささげるまで献身したのに、願うとおり祝福が臨まないとき、もしかして心が悲しくならなかったでしょうか? あるいは、自分から失望して「私は愛されていない人のようだ」と肉の思いをして、多くの分野であきらめてしまわなかったでしょうか? もし、このような心を持った人にパウロのような苦しみが臨んだなら、はたして感謝の告白ができるでしょうか?
  使徒パウロは主に出会って以来、一度も主の恵みに感謝する心が変わらなかったし、主に対する熱い愛が冷めませんでした。それで、主に出会ってから、主の福音を伝えるために死に至るまで忠実であって、最後には殉教することになった時も、ただ感謝の告白をささげることができました。「もう私の生涯はこんなふうに終わるんだなあ!」と複雑な心情になったり、悔恨を感じたりしたのではないし、死の恐怖で硬直した心情では、なおのことありませんでした。
  むしろ死を前にして、あまりにも会いたかった主にもうすぐお目にかかれるという喜びで、胸が一杯でした。人なら誰でも死を前にして緊張するものですが、使徒パウロは希望に満ちて、むしろ喜びと感謝があふれ出たのです。使徒パウロがこのようにどんな苦しみを受ける時にも、はなはだしくは命を失う状況でも、変わらず感謝の告白をささげられたのは、彼の心がまことにきれいで善だったからです。

3. 「すべての事について、感謝する」という意味

 それでは、皆さんは「すべての事について、感謝しなさい」というみことばをどれほど実践しているでしょうか? すべての事について感謝するとは、良い事にも良くない事にも感謝し、うれしい事はもちろん、困難がやって来ても感謝することです。感謝する条件がある時に感謝するのは、世の人も皆できます。しかし、神を信じる人々は、現実に困難があるとしても、信仰によって感謝するということです。祈って求めるなら、どんな問題も解決してくださる神を信じて、感謝できるのです。また、自分の思いどおりにならなくて、苦しみを受けるとしても、自分を愛される神を信頼して愛するので、感謝できます。
  私たちは一生の間感謝しても、すべてしきれないほど、神の大きな恵みと愛をいただきました。とこしえにぞっとする地獄の火で苦しみを受けるところだったのに、イエス・キリストの尊い血によって罪赦されて神の子どもとされる特権を与えられ、美しい天国で永遠のいのちを味わえるようになったのですから、どれほど感謝なことでしょうか。
  <第一ペテロ1:7>に「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」とあります。<ローマ8:18>には「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。」とあります。
  ですから、信仰の試練を通してさらに完全にされることに感謝し、主のために今の時に受ける苦しみに比べられない栄光で報いてくださることに感謝できるのです。このようにすべての事について、何が良いことなのかわきまえ知るようにされる神のみこころを信じて、心から感謝するとき、神が喜ばれて、さらに大きい感謝の条件を与えてくださいます。

  使徒パウロは自分に苦しみを受けることを許されて、それを通して完全にさせる神に、いつも感謝をささげました。ですから、神はパウロを思いきり訓練することがおできになったし、結局パウロは大使徒として数えきれない魂を救って、神に大いに栄光を帰したのです。
  したがって、皆さんも使徒パウロのように、どんな状況でも主に対する恵みと感謝が変わらないで、いのちを尽くして神の国のために忠実に仕える尊い働き人になりますように。


●まとめと適用
1. <第一コリント15:10>をみんなで覚えてみましょう。


2. 教会をはなはだ迫害して、イエスを信じる人を捕らえて殺すことまでした使徒パウロが回心するようになった動機は何でしょうか?(→ヒント:ダマスコ、主)


3. 皆さんにパウロのような苦しみを受けることが許されたら、心から感謝できるでしょうか?


4. 皆さんは「すべての事について、感謝しなさい」というみことばをどれほど実践したでしょうか? すべての事について感謝するとは何か、話し合ってみましょう。



●今週の課題
次回は「使徒パウロの善(2)」を学びます。ローマ人への手紙9章を読んできましょう。

●「用語」を知って力にしましょう!
 「ダマスコ」とは?
使徒パウロが主に出会って回心したところであり、古代のシリヤ(アラム)の町である。


←戻る(7) << 善8 >> 次へ(9)→
←トップへ戻る ←聖書の学びへ戻る