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信仰の量り 7

「みことばどおり行える信仰の三段階」

読むみことば: マタイ7:24-25
覚えるみことば: マタイ7:24
参考にするみことば: 第一テサロニケ5:16-18
教育目標: みことばどおり行える信仰の三段階について調べてみる。
 信仰の一段階は聖霊を受けて救われた段階であり、信仰の二段階はみことばを聞いて行おうと努力する段階だと説明しました。二段階では、みことばを知って、守らなければならないと学んで、行おうと努力はしますが、時には守ったり、時にはみことばに背いて肉の行いをしたりします。しかし、転んで倒れても、また立ち上がって歩いていくように、みことばどおり行おうと努力し続けていくなら、ますます信仰が成長するようになります。以前はみことばを知っていても行えないことが多かったのですが、信仰が育ちながら悟るようになるので、だんだん行えるようになります。それで、信仰の三段階を「行える信仰」「悟るようになる信仰」とも言います。

1. みことばを知っていることと悟ることの違い

 みことばを知っていることと悟ることとは次元が違います。「神様のことばだから」と義務感からただ行うのと、なぜ行うべきかを悟って、湧き上がる心で聞き従うのとでは、大きい違いがあります。
  たとえば「主日を守って完全な十分の一献金をささげれば、神様が試練や患難を退けてくださり、病気が離れるようになさり、たましいに幸いを得ているようにされ、物質も祝福してくださる」と聞きました。しかし、このようなみことばを聞いて知っているだけでは、行いが伴いません。「そうだろう」と思って守ろうと努力しますが、完全に心で信じられるまでは、環境によって守る時もあり、守れない時もあります。

  けれど、ある瞬間、みことばが悟れるようになって、まことに心で信じられる信仰になれば、この時からはいくら困難なことがあっても、妥協しないで主日を守り、完全な十分の一献金をささげることができます。
  神が命じられた主日を聖なる日として守ることは、神の霊的主権、すなわち、霊の世界の主人が神であることを認めるという意味です。したがって、私たちが主日を聖なる日として守れば、神は一週間、さまざまな災いや事故から守ってくださり、たましいに幸いを得るように導いてくださいます。
  また、十分の一献金をささげることは、神の物的主権、すなわち、私たちの目に見える天下万物のすべての世界が神に属していることを認めるという意味です。神は天地万物の創造主であられるので、いのちそのものが神から出たものであり、私たちが苦労して努力できる力も神が下さったものなので、結局すべてが神のものです。つまり、すべての収入が神のものですが、そのうち十分の一だけを神にささげて、残りは私たちが使えるようにしてくださったのです。
  <マラキ3:8-9>に「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。」とあります。

  このようなみことばを聞いて学び、まことに心の底から悟れるようになると、完全な十分の一献金と奉納物をささげないことが神のものを盗むことであり、神の呪いが臨むしかないことを信じるようになります。それで、これまで行えなかったことを徹底的に悔い改めて、心から喜びと感謝をもって聞き従うようになります。知っているみことばを悟ってこのように行えば、神に守られて、押しつけ、揺すりいれ、あふれるまでに注いでくださる祝福を体験して生きていきます(マラキ3:10)。

2. 信仰の三段階に入るには

 みことばを知識として知っている次元を超えて、まことの意味を悟ってこそ聞き従うことができ、行ったとおり報いてくださる神に祝福されていきます。反対に、悟れなければ、頭で知っている知識にすぎないので、行おうとしても完全に行いが伴いません。したがって、私たちは熱心に信仰を成長させる訓練をしなければなりません。
  赤ちゃんが生まれたのに、何も飲ませないまま放っておけば、結局、死ぬしかありません。赤ちゃんはお乳をよく飲んで、手足をばたばたさせて動かなければならないし、親や家族を通して見て、聞いて、学ばなければなりません。このような過程を経て知識が積まれ、知恵も発達して、健康に育つことが見られます。
  同じように、神を信じる人はみことばを聞いて終わるのではなく、これを悟るために努力しなければなりません。祈りながら、知っているみことばを行っていこうと努力するとき、自分でも知らないうちにみことばが心に悟れるようになって、そのみことばを守って行えるようになるのです。

  たとえば、神は<第一テサロニケ5:16-18>で「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と言われました。
  信仰の二段階の人は、神が命じられたことなので無理に喜んで、祈って、感謝しようと努力します。ところが、喜べて感謝する条件や環境にならなければ、そうできません。しかし、信仰の三段階に入って、岩の上に立てば、このみことばどおり行えます。なぜいつも喜んでいて、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しなければならないのか悟って、どんな環境や条件にいても喜んでいて、絶えず祈って、感謝できるのです。

3. 信仰の三段階に入った証拠

 それでは、私たちはなぜいつも喜んでいなければならないのでしょうか? もし、私たちがうれしくて楽しいことがある時だけ喜んでいて、試練や患難、憂いや心配がやって来る時は喜べないなら、神を信じない世の人々と変わりません。
  世の人々は人の子らがどこから来てどこへ行くのか知らないので、この地上に目的を置いて生きていきます。それで、肉的にうれしくて楽しい時だけ喜んで、そうでない時は、世が与える憂い、心配、悲しみや苦しみの中で生きていくのです。

  しかし、私たちは天国に望みを置いているので、神を信じない世の人々とは次元が違う生き方をしなければなりません。生死禍福をつかさどられる神が自分の父であります。神は全知全能ですから、おできにならないことがありません。自分が苦しいとき、御手を差し伸べてくださり、最も良い道に導いてくださる父なる神がおられるので、心配して憂える必要がありません。しかも、イエス・キリストによって美しい天国で永遠のいのちと祝福を味わうようになったのですから、いつも喜んでいることができます。
  心の底からみことばを悟れば、喜べない条件でも喜び、祈れない状況でも祈り、感謝できないことにも感謝できます。そうするとき、敵である悪魔・サタンが退いて、試練や患難が離れ、神がともにおられるので、問題がすいすい解決されるのを体験できます。
  したがって、全知全能の神を信じると言いながらも、何かの問題が迫ってきたとき、まず心配と憂いが浮かんだり、無理に喜んだりするなら、まだ信仰の二段階です。みことばを悟って、心の底から喜んで感謝する姿に変わっていくなら、これは信仰の三段階に入ったのだということがわかります。
  また、信仰の三段階になれば、憎しみを捨てるために相手に仕えて愛そうと努力するので、憎しみがなくなって、敵をも愛することができる愛が少しずつ臨むようになります。これは、罪人になった人類のために十字架を負われた主の愛を悟るようになったからです。

  イエス様はひたすら善だけを行われ、何の過ちもなかったのに、罪人たちによって十字架につけられて苦しまれ、さげすまれました。ご自分をあざける人々を憎まなかっただけでなく、かえって彼らを赦してくださいと祈られ、いのちを与える大いなる愛を施してくださいました。
  このような愛を悟る前は、自分に害を及ぼしたり、わけもなく自分をそしったりするのを聞けば、その人を憎みましたが、今はその罪は憎んでも、その人は憎まないようになります。そして、自分より熱心に働いたり、ほめられたりしている人を見れば、ねたんでそねむのではなく、一緒に喜んで幸せになるのです。また、みことばを聞くとき、自分の思いに合わせて疑ってさばいていた人も、今は心の戸を開いて、すべて信仰によって受け入れようとします。
  このようにみことばを一つ一つ行える段階がまさに信仰の三段階なのです。それでは、皆さんはどれほどみことばを悟って行っているでしょうか? 決して知っていることで終わらないで、悟ったことを行うことによって、より大きい信仰に成長しますように。


●まとめと適用
1. 信仰の三段階に当たるものを二つを選んでください。
@聖められた段階である。
Aみことばを心から悟って聞き従う段階である。
B信仰生活の中で最もつらい段階である。
Cみことばどおり行える段階である。



2. みことばをただ知っている段階で信仰生活をする時と、悟って信仰生活をする時の違いについて説明してください。


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●今週の課題
信仰の岩とは何のことで、岩の上に立った信仰とはどんな信仰のことでしょうか? 関連聖句も捜してきましょう。

●「用語」を知って力にしましょう!
 「十分の一献金」 とは?
神にささげる収入の十分の一のことを言う。神は旧約時代のイスラエルの民に地の産物、木の実、牛や羊の十分の一をささげなければならないと命じられた(レビ27:30-32;申命14:22)。神は従わないで呪われる人がいないように、十分の一献金を通してどれほど祝福が臨むのか、ためしてみよと言われた(マラキ3:10)。


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