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信仰の量り 5

「みことばどおり行おうとする信仰の二段階」

読むみことば: ローマ7:21-25
覚えるみことば: マタイ7:14
参考にするみことば: マタイ7:13-14、第一ペテロ5:8
教育目標: みことばどおり行おうと努力するが、信仰生活の中で最もつらく感じられる信仰の二段階について調べる。
信仰の一段階にいる人は、罪を犯しても心が苦しくなったり、あまり御霊のうめきを感じたりしません。みことばを知らないだけでなく、真理が何か、真理に逆らうものが何かも知らないからです。罪を犯しながらも、罪に対する感覚がありません。
しかし、ここからもう少し成長すれば、みことばを行おうとする心が生じて、行おうと努力する信仰の二段階に入ります。この時からは、みことばを学んで知っていながらも相変わらず罪を犯せば、「私、これじゃいけないのに、真理はこうじゃないのに」と心が悩むようになり、御霊のうめきも聞くようになります。

1. みことばどおり行おうとする信仰の二段階

 イエス・キリストを受け入れて、救われることができる信仰の一段階の人は、みことばについての知識がないので、罪を犯してもわかりません。これは、赤ちゃんが裸でいても恥ずかしいと感じられないのと同じです。この時は真理をよく知らないので、真理にそむいてはいけないという意識もありません。これについては神も責められません。信仰の量りがそれしかならないからです。
  ところが、ここから信仰がもう少し成長すれば、みことばどおり行おうとする信仰の二段階に上がります。この時からは、みことばを知っているので、罪を犯せば御霊のうめきを聞いて、心も悩むようになります。みことばを聞いて知ったので、行おうと努力はしますが、まだすべてのことにおいて真理に従って行うことはできません。時には真理に従って行いますが、罪との戦いで負けて疲れたりもします。
  たとえば、「安息日を完全に守りなさい」と言われたので、そのとおりに守ろうと努力はしますが、家や職場で何かあったら、完全に主日を守れない時もあります。みことばに聞き従って、絶えず祈ろうとはしますが、忙しければやめてしまいます。また、苦しいことがやって来れば、感謝できなくてつぶやきます。自分の思いに合わなかったり、相手が大声を上げたりすれば、我慢しきれなくて憤って争ったりもします。

  信仰の二段階ではこのような姿が現れますが、絶対に気を落としたり、あきらめたりしてはいけません。まだみことばどおり完全に行えないとしても、努力し続けていけば、神が恵みを下さり、捨てられる力が与えられるからです。
  特にこの段階にいる人々を顧みる時に注意すべきことは、何が何でもみことばを守りなさいと強いてはならないということです。その信仰の段階に合わせて、賢く教えなければなりません。まだ酒、タバコをやめられない人に「お酒やタバコをやめなければ神様が怒られます」と言えば、まず拒否感が起こって、教会に来るのを嫌がることがあります。この時は「お酒やタバコも、神様が助けてくだされば簡単にやめられますよ。信仰が成長すれば自然に捨てられるから、信じて祈ってください」と教えなければなりません。
  また、主日の午前礼拝だけをささげて店を開くなら、「神様は主日を完全に守れば喜ばれます。主日を守って信仰によって祈れば、主日に入る収入よりもっと祝福されるのを体験しますよ」と信仰を植えつけながら、やわらかく勧めればよいのです。その人が罪の意識を感じて、「神様は懲らしめる方だ」と思わせるのではなく、「愛の神様」と感じられるように導くことが大切です。

2. 信仰生活の中で最もつらい信仰の二段階

 信仰の二段階では、信仰生活が多少難しく感じられます。知識としてはみことばを知っていて、罪と義とさばきについて学びましたが、相変わらず世が好きで、真理に逆らうことをしたい心があるからです。特に真理の心と真理に逆らう心が対等で、がっぷり四つに組んで戦う時は、信仰生活が最もつらく感じられます。これよりひどくなれば、心が悩むようになり、聖霊に満たされなくなって、信仰生活をおろそかにしたり、全く信仰を捨てて世に向かったりします。
  <ローマ7:21>以下を読めば、善と悪が自分の中で戦うとき、信仰生活がどれほど苦しいかがよく書かれています。「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」とあります。
  ある人は気楽に信仰生活をしようと、罪を指摘しない教会を捜して行きます。主日に働いても責めないで、十分の一献金をしなくてもかまわないという教会がいいと思います。しかし、罪を指摘しない教会で信仰生活をすることは気が楽かもしれませんが、罪の問題を解決できないので、救いとはほど遠いということを知らなければなりません。

  信仰生活とは、罪を捨てて聖められ、神のお心に似せられて御霊の人に変えられることです。ところが、罪を捨てることもせず、教会を行ったり来たりするだけなら、形式的な信仰生活にすぎないし、世の人と変わらないのです。
  信仰の一段階から二段階になったら、当然三段階に上がって行かなければなりません。ところが、一段階へと退歩しているので、敵である悪魔・サタンが放っておくはずがありません。その上、持っているからし種ほどの信仰まで奪うために、度々肉の思いを吹き込みます。闇の勢力は何としてでも私たちが受けた恵みにそむくように、世を選ぶように惑わします。ですから、神の恵みも冷めて、聖霊に満たされなくなって、教会を行ったり来たりだけして、結局、御霊が消されて救われることさえできなくなるのです。
  <第一ペテロ5:8>に「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。」とあり、<第一テサロニケ5:19>には「御霊を消してはなりません。」とあります。いくら罪を捨てることが苦しくても、その過程を通ってこそ、より大きい信仰に成長することができるのです。

3. エジプトから出て来たイスラエルの民の信仰

 400年間、奴隷生活をして、モーセについてエジプトから出たイスラエルの民は、カナンの地へ行く旅路で神の驚くべきみわざを見ました。エジプトに十の災いが臨むのも見て、葦の海に着くと海が分けられるのを見たし、マラに来ては苦い水が甘い水に変わって飲めたし、シンの荒野に入っては天から降るマナとうずらを食べました。
  しかし、数えきれない神のみわざを体験したのに、彼らは困難がやって来るたびにモーセに立ち向かってつぶやきました。神を信じなかったので、現実にやって来たすべての状況が苦しいとだけ感じられたのです。
  もし神が必ずカナンの地に導かれるという信仰が堅かったら、いくら困難なことにあっても、つらいと思わなかったでしょう。ところが、信仰も希望もないので、つぶやいたあげく結局、荒野で死んでしまいました。
  劣悪な環境の中でも、どんな心と信仰を持っているかによって人生が違ってきます。祝福されて成功する人生になることもあり、反対に、試練や患難の中をつらく生きていくこともあります。幸いな人生になりたいなら、決して信仰の歩みを止めませんように。

4. みことばに聞き従えば決してつらくない

 信仰生活がつらく感じられるのは、みことばどおり聞き従わないで、他の道に行くからです。畑で働く牛が主人が引くとおりにおとなしくついて行けば、かわいがられます。ところが、従わないで他の所に行く時は、むちで打たれるしかありません。
  同じように、「憎んではならない、姦淫してはならない、盗んではならない」という神のことばに聞き従えば、信仰生活がやさしいのに、「してはならない」ということをするからつらいのです。 <マタイ7:13-14>に「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」とあります。
  信仰生活を始めたばかりの人は、みことばどおり生きることが狭い門から入るように苦しく感じられます。しかし、みことばに一つ一つ聞き従っていってみると、これが天国を所有する、うれしくて幸せな道であることを悟るようになります。
  したがって、皆さんはみことばを知識として積むことで終わらないで、実践に移してすみやかに聖められ、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する信仰の段階に至りますように。


●まとめと適用
1. 信仰の二段階についての説明の中で、間違っているものはどれでしょうか?
@信仰生活の中で最もつらい段階である。
Aみことばどおり行おうと努力する段階である。
B罪を犯しても心が苦しくならない。
C約束ができれば、時々主日を守らないこともある。


2. 教会に来てあまり経たない初心の者ですが、主日に店を開けました。この方にどう言ったらよいでしょうか?



●今週の課題
次回は「乳を飲む信者と堅い食物を食べる信者」を学びます。信仰の量りについて知ることにはどんな益があるでしょうか? 自分について、また家族や伝道している人のことを思い浮かべて、考えてみましょう。

●「用語」を知って力にしましょう!
 「出エジプト」 とは?
エジプトで400年間、奴隷として生活していたイスラエルの民が、神が約束されたカナンの地に入るために、預言者モーセに導かれてエジプトを脱出した出来事を言う。


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