ホーム > 聖書の学び > 信仰の量り3
←トップへ戻る ←聖書の学びへ戻る  || ←戻る(2) << 信仰の量り3 >> 次へ(4)→

信仰の量り 3

「神が分け与えてくださった信仰の量り」

読むみことば: 第一ヨハネ2:12-14、エゼキエル47:3-5
覚えるみことば: エペソ4:13
参考にするみことば: ローマ12:3
教育目標: 神が分け与えてくださった信仰の量りにはどんなものがあるか調べてみる。
 <ローマ12:3>に「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」とあるように、人によって信仰の量りは違います。たとえば、イエス様と一緒に十字架につけられて、死ぬ直前に悔い改めて救われたひとりの強盗の信仰と、主のためにいのちを尽くして献身したペテロの信仰には、雲泥の差があります。このように、信仰がとても大きい人がいるかと思えば、からしの種ほどの小さい信仰を持っている人もいます。

1. 人の成長過程にたとえた信仰の段階

 <第一ヨハネ2:12-14>では、霊の信仰の段階を人の成長過程にたとえています。
「子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあります。

1) 子どもたちの信仰
 神を知らなかった人が主を受け入れると、すべての罪が赦され、賜物として聖霊を受け、神の子どもとされる特権を与えられます(ヨハネ1:12)。このように罪が赦されて救われた信仰が「子どもたちの信仰」です。まるで生まれたばかりの赤ちゃんのような状態なのです。この時は真理をよく知らないので、光の中を歩むこともできません。単に福音を聞いて主を受け入れ、救われることができる初心の者の信仰にすぎません。
 子どもたちの信仰の人は、聖霊を受けて新しく生まれましたが、みことばどおり行う力はありません。神を信じていると言いながらも、世と友になって生きていきます。主日を守ることや十分の一献金をすることも、思いどおりにできません。試練や迫害がやって来れば、すぐ気を落とします。したがって、安定した信仰を持つまでは、気を緩めないで、いつも関心と愛をもって顧みなければなりません。

2) 小さい者たちの信仰
 子どもたちの信仰が育てば、小さい者たちの信仰になります。まるで生まれたばかりの赤ちゃんが乳飲み子の時を過ぎると、事物を認知して親がわかるようなものです。この時は親を知っているといっても、故郷、好み、学歴、性分など、深い内容までは知りません。
 霊の成長過程でも「小さい者たち」とは、父なる神を知ったばかりの信仰のことを言います。<第一ヨハネ2:14>に「小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。」とあるとおりです。「御父を知った」とは、神が自分のお父様であることを知るということです。赤ちゃんがある程度育てば、お父さん、お母さんがわかるように、イエス・キリストを受け入れて、みことばを聞いて学んでいけば、神のみこころも知るようになります。また、神のことばに聞き従わなければならないことも知るということです。しかし、みことばに聞き従う時もあり、聞き従えない時もあって、試練がやって来れば、つぶやいたり気を落としたりもします。

3) 若い者たちの信仰
 子どもが成長すれば若者になるように、霊的にも、小さい者の信仰が育てば若い者の信仰になります。つまり、みことばと祈りを通して、罪が何であり、神が願われることが何かわきまえられる、若い者の時を迎えるのです。若い者の信仰になれば、みことばがそのうちにとどまり、悪い者に打ち勝つほど強くなります。<第一ヨハネ2:13-14>に「……若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。…あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」とあるとおりです。
 ここで「神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり」とは、みことばを守り行うことを言います。みことばが心に臨んでいるので、世に目を向けないで、天国の望みで満ちているのです。それだけでなく、悪い者、すなわち、敵である悪魔・サタンの要塞を破っていき、惑わされません。どんな試練にあっても揺れないで、絶えず祈って、感謝をもって圧倒的な勝利者となります。

4) 父たちの信仰
 自己主張が強くて自分を曲げることを知らない若い者の時を過ぎて、おとなになれば、人生経験が積まれて生き方の知恵が見えてきます。すべてにおいて出るべき時と退くべき時、黙っているべき時を知って、どうすれば人の心をつかんでよく治められるかも知っています。若者や子どもの時とは次元が違います。
 霊的にも同じです。父の信仰を持てば、神の初めについて詳しく知ることができます。神の深い摂理を悟ります。それで、<第一ヨハネ2:14>に「父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。」とあるのです。つまり、初めからおられる神を知る信仰なのです。
 これは小さい者の信仰で神を知ることとは全く違う次元です。小さい者の信仰で「神を知る」とは、わきまえのない子どもが自分の水準で親を理解することにすぎません。しかし、父の信仰は創造主の神の初めの深いところまで知る次元です。
 モーセは神の初めを知ったので、天地創造をはじめとして数えきれない奥義の啓示を受けて、モーセ五書を記しました。アブラハムも「初めからおられる方を知る段階」に至ったので、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、喜んで従えました。死者の中からよみがえらせることもできる神を完全に信じたのです。このように神の深いお心、すなわち、根本までわかってこそ、神のことばに完全に聞き従って、喜ばれることができます。いくら人の思いでは不可能なことにも、ただ「はい、そうします」と「アーメン」だけ言えるのです。

2. エゼキエルの幻を通して見た信仰の量り

 <エゼキエル47:3-5>では、水が達する高さによって信仰の量りを説明しています。「その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。」
 ここで「水」とは、神のことばを意味しています。聖殿から出た神のことばが全世界に広がっていくのを見せてくださったのです。「その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り」とありますが、これは将来、白い御座の大審判の時、主がおのおのの信仰を測られ、それによってさばかれることを意味します。手に測りなわを持った人は【主】の使いであり、彼が一千キュビトを測るたびに水が足首からひざと腰、それ以上に達したとは、まさに信仰の量りを表しているのです。
 「足首まで水が達した」とは子どもの信仰、すなわち、やっと救われるほどの信仰です。「ひざまで達した」とは小さい者の信仰、「腰まで達した」とは若い者の信仰を表し、背を越えるほど「水かさは増した」とはおとなになった父の信仰を意味しています。
 「一千キュビトを測る」とは、神の広くて大きいお心と一寸の誤差もない正確さ、あらゆる分野を推し量る深いお心を表しています。神がおのおのの信仰を測られるとき、ある一面だけでなく、あらゆる分野を総合的に探られるという意味なのです。ひとりひとりの一挙手一投足はもちろん、心の深いところまでも正確に探られて、誰も不当だと言えないように正確にさばかれるのです。
 聖書には、信仰の量りについて悟らせてくれる箇所がところどころにあります。<エペソ4:13>には「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」とあるように、私たちがより大きい信仰の量り、すなわち、キリストの満ち満ちた身たけにまで達しなければならないことが記されています。
 したがって、私たちが聖書のみことばを知識として知るだけでなく、心に信じて、行いによって全うされるとき、神が望まれるまことの子どもとして、この地上でも天でも主とともに歩みながら、永遠の愛を分かち合うことができるのです。


●まとめと適用
1. イエス様と一緒に十字架につけられて、死ぬ直前に悔い改めて救われたひとりの強盗は、どの段階の信仰を持ったのでしょうか?(     )


2. 次の説明の中で間違っているものを選んでください。
 @子どもたちの信仰は、聖霊を受けて救われたばかりの初心の者の信仰である。
 A小さい者たちの信仰では、神の深いみこころを知って行う。
 B若い者たちの信仰では、敵である悪魔・サタンをみことばによって退ける。
 C父たちの信仰を持つ人は、創造主の神の初めの深いところまで知っている。


3. (       )の中に正しい答えを書いてください。
 子どもたちの信仰: 聖殿から出た水が(       )まで達したこと
 小さい者たちの信仰: 聖殿から出た水が(       )まで達したこと
 若い者たちの信仰: 聖殿から出た水が(       )まで達したこと
 父たちの信仰: (            )



●今週の課題
次回からは信仰の段階について一段階から具体的に学びます。主を受け入れたばかりのとき、自分の信仰生活はどうだったか、思い出してメモしてきましょう。

●「用語」を知って力にしましょう!
 「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」(ヘブル11:1)
「信仰は望んでいる事がらを保証し」とは、未来の希望がすでにかなえられたと確信すれば、結局、現実になるという意味である。「目に見えないものを確信させるもの」とは、肉の目で見られないすべてのものを霊の目で見られる霊の信仰と確信を意味する。


←戻る(2) << 信仰の量り3 >> 次へ(4)→
←トップへ戻る ←聖書の学びへ戻る