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信仰の量り 1

「肉の信仰と霊の信仰」

読むみことば: ヘブル11:1-3
覚えるみことば: マルコ9:23
参考にするみことば: ヤコブ2:26
教育目標: 神が喜ばれる霊の信仰と反対である肉の信仰の特徴について調べる。
 信仰は何とも比べられない宝の中の宝であり、世のすべての問題を解決する鍵です。人の力では不可能などんなことでも、全知全能の創造主の神にはおできになります。聖書には、天の日と月をとどめたり葦の海を分けたりもし、戦場で勝利したり死んだ人を生き返らせるなど、不可能が可能になった記述が数えきれないほどあります。このように神は全知全能なので、人が病気とわずらいをいやされることも、家庭と事業の場のこじれた問題が解決されることも、信仰さえあれば難しくありません。ここで重要なことは、必ずまことの信仰がなければならないということです。いくら口で父なる神を呼んで「主よ信じます」と祈っても、まことの信仰がなければ、神のみわざを体験することができません。

1. 神が願われる信仰は霊の信仰

 神を信じると言う人々の中に、救いの確信さえなく、漠然と信じている人がいます。ですから、祈っても答えがなく、世の人と変わらず、病気とさまざまな問題で苦しんで、試練や患難の中に生きていくのです。
 <マルコ9:23>に「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」とあります。信仰によって祈ったなら、必ず答えられなければなりません。「信じます!」と祈ったのに答えられなかったのなら、自分の信仰がまことの信仰なのかをチェックしてみなければなりません。
 <詩篇37:4>に「【主】をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。」とあり、<ヘブル11:6>には「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。したがって、信仰によって神に喜ばれれば、心の願いまでも答えられるのです。もし神を信じると言いながらも答えられないなら、これはまことの信仰ではないからです。
 それでは、神が願われる信仰とはどんな信仰でしょうか? 信仰は大きく二つに分けられます。神が認められて答えてくださるまことの信仰、すなわち、霊の信仰と、反対に神が認められない肉の信仰があります。

2. 神がお認めにならない肉の信仰

1) 自分の知識と思いに一致することだけ信じる信仰
 肉の信仰は救いや信仰の問題とかかわりがなく、世の人も持てます。たとえば、「このおしぼりは白です」と言ったとき、事実を確認した人は誰でも信じます。自分が学んで受け入れた知識と一致するからです。
 ところが、私たちが正しいものだと学んだ知識が全部真理なのではありません。歳月が過ぎれば変わることがあまりにも多いのです。国と民族、個人によって、真理だと思う知識や正しいと思う基準がみな違います。
 たとえば、昔は地球が丸くなくて平たい、太陽が地球の周りを回っていると学びました。その当時の人々はこれが真理だと思っていましたが、今はこれを真理だと信じている人はいません。
 人は小さい頃からあることを真理だと学べば、それを真理だと思います。それで、自分の知識と合わなければ、真理を真理に逆らうものだと思ってしまいます。今日、福音を聞いても創造主の神を信じられない人々がこのようなケースに該当します。小さい時から進化論という偽りの理論を真理だと学んだので、創造を教えても信じようとしません。進化論は人の思いの中で組み合わせた、間違った理論にすぎません。いくら数千万年、数億万年が過ぎても、魚が陸地動物になれないし、猿が人にはなれません。
 ある人は「全能の神様を信じます!」と言いながらも、聖書を自分の知識と理論に合う部分だけ信じます。世の知識と理論に合わせようとすれば、聖書には信じられない部分があまりにも多いです。人の力ではとうてい不可能な神の力あるわざなども、納得しにくいです。ですから、不思議としるしは実際にあったことではなく、象徴やたとえだと思います。また、ペテロが水の上を歩いたと言えば、浅い所を歩いたのだと言います。薬を飲んで、手術して病気が治ったと言えば信じられますが、ただ祈りだけ受けていやされたと言えば、何か他の理由があるだろうと疑います。
 このような信仰は神とはかかわりがなく、救われることもできません。まことの信仰は、自分の思いと知識とかかわりなく、聖書のみことば全体が神のことばであり、絶対的な真理であることを信じることなのです。

2) 移り変わる信仰
 心の願いに答えられるために祈って、忠実に仕えました。ところが、自分が願う時に答えが来ないと、あせって気を悪くします。「なんで他の人にはすぐ答えてくださって、私にはこんなにふうに答えてくださらないか」と思うのです。ですから、だんだん恵みに満たされなくなって、前に答えられたことや他の人の証しまでも偶然の一致と思います。
 <ヤコブ1:6-7>に「ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。」とあります。このように、移り変わる信仰は答えられるまことの信仰ではありません。<マルコ11:24>に「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」とあるように、求めるものは「答えられる」と信じるのではなく、「すでに答えられた」と信じなければならないのです。
 病気の問題もそうです。<第一ペテロ2:24>に「キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」とあるように、約二千年前、イエス様が苦しみを受けて、私たちのすべての罪と悪と呪いを贖われたので、すでにいやされたのです。したがって、信仰があるなら、これ以上つらくて苦しい姿ではなく、希望で満ちて喜んで感謝するのです。すぐに目に見える証拠がなくても、答えられたという信仰に移り変わりがないとき、完全にいやされることができます。

3) 行いのない信仰
 神のことばを知っていることと信じることは別です。神のことばは知識としてではなく、心から信じなければなりません。そうする時でこそ、みことばどおり聞き従う行いが伴います。
 たとえば、神は「蒔けば、その刈り取りもする」と言われました。これは健康や物質、あらゆる分野に該当する霊の世界の法則です。ツァレファテのやもめは神のしもべの命令に信仰によって聞き従って、長い間の日照りの中で最後に残った糧をエリヤに差し上げました。人の思いを働かせばとうていあげられないいのちのような糧でしたが、神のおことばを信じたので聞き従いました。その結果、日照りが終る時までつぼの油とかめの粉が尽きない祝福を受けました(第一列王17章)。
 ところが、肉の信仰を持っている人は、このようなみことばを聞いて知識としては知っていても、いざ苦しい現実に直面すると、行えません。今すぐの生活費が足りそうもないと、十分の一献金をことごとくささげないかと思えば、さまざまな献金をすることを惜しみます。神に蒔くものはすべて祝福として報いてくださるということを信じるなら、いやいやささげません。知識としてだけ知っているので、もったいながって完全な行いが伴わないのです。
 神が全知全能であられることを信じる人なら、病気にかかったとき、どうして世の方法を使うでしょうか。神の力を知識としは知っていますが、心では信じられないので、世の方法に頼るのです。
 すると、神がどれほど悲しまれるでしょうか。それは、アサ王が病気にかかったとき、【主】を求めることをしないで、逆に医者を求めて死んだと記されていることからよくわかります(第二歴代16:12-13)。
 その他にも「いつも喜んでいなさい、すべての事について感謝しなさい、絶えず祈りなさい、敵をも愛しなさい、仕えなさい、平和をつくりなさい」とあることをすらすら暗唱しても、知識としてだけ知っていて行えなければ、神のみわざを体験することができません。<ヤコブ2:26>に「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」とあるので、肉の信仰では答えや祝福はもちろん、まかり間違えれば救われることさえできないことを覚えて、霊の信仰を持たなければならないのです。


●まとめと適用
1. 答えの鍵であり、宝の中の宝とは何でしょうか?


2. (   )の中に肉の信仰の特徴を書いてください。
 第一、自分の(   )と(   )に一致することだけ信じる。
 第二、(     )信仰だ。
 第三、(     )のない信仰である。

3. 祈っても答えがなくて「神様は私の祈りに答えてくださるんだろうか」としょっちゅう疑うようになります。なぜそうでしょうか?



●今週の課題 今回の学びで、神様がお認めになるのは霊の信仰だとわかりました。では、その霊の信仰を持つのに何が邪魔をしているのか、次回までに考えてきましょう。

●「用語」を知って力にしましょう!
「進化論」とは?
各種の動植物は互いに孤立しているのではなく、低い段階から高い段階に、単純な形から複雑な形に、不完全なものから完全なものに発展すると主張する生物学の理論である。神が天地万物をことばによって造られたという創造論と正反対の理論である。進化論は1859年、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』が出版されてから確立された。


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