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愛の章 12

「全き愛」

読むみことば: 第一コリント13:8-13
覚えるみことば: 第一コリント13:13
参考にするみことば: 詩篇103:15
教育目標: 信仰と希望と愛の中で「一番すぐれているのは愛」とあるみことばに込められた霊的な意味を調べる。
 この世の草、花、木のように、肉に属するすべてのものは永遠ではありません。それで、<詩篇103:15>に「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。」とあるのです。富と名誉、権威などもみな変わって、結局はなくなります。憎しみ、争い、ねたみ、そねみなど、罪と闇もなくなるものです。けれど、愛だけは永遠に変わらないので、天国にまで持って行けるのです。

1. 「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」 (第一コリント13:8)

 預言や異言、神を知る知識は御霊に属するものなのに、なぜこれもすたれると言うのでしょうか? 霊の世界である天国は完全な所です。私たちがこの世で預言するとしても、やがて天国で知って悟ることとは次元が違います。天国では神と主のお心をよく知っているから、預言がこれ以上必要ではありません。
  異言もそうです。ここで言う異言とは、各種の言語のことです。今は国や民族、地域によって違う言語を使っているので、話をしようとすれば、互いの言語を学ばなければなりません。天国に行けば、このような心配がありません。言語が一つなので、言っていることがわからない心配がなく、良い心がそのまま伝わるので、誤解や偏見が生じないのです。
  知識も同じです。この地上では、神を知るために熱心に学びます。どうすれば救われて、神のみこころが何なのか学びますが、これは天国に行くのに必要な、極めて一部分にすぎません。
  預言や異言、知識などは御霊に属するものですが、天国へ行くために一時的に必要なものであるだけです。それで、天国ではこのようなものがすたれるのです。
  しかし、愛は天国でもすたれないで、心に割礼をして霊の愛を耕したほど、よりすばらしい天国に行けます。したがって、神の子どもたちは永遠のものである愛を心に耕すことが何よりも大切なのです。

2. 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。……その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」 (第一コリント13:12)

 小さい子どもに百円玉と千円札を差し出せば、当然硬貨のほうを手に取ります。百円玉でお菓子を買ったことはあるけれど、紙幣では買ったことがないので、その価値がわからないのです。
  私たちが天国を知って悟る深さも、これにたとえられます。天国は美しい所だということは知っているけれど、どれほど美しいのか、その輝きがどれほどきらびやかなのか、完全に悟るのが難しいのです。 やがて天国に行けば、その時は無限に広くて神秘的な霊の世界と、すべてのものが動かされる原理も、いくらでも悟れます。それで、<第一コリント13:11>に「私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。」とあるのです。肉の世界と霊の世界には、このように明らかに違いがあるのです。
  もちろんこの地上でも、信仰の量りに応じて、話をして悟って考えることに違いが出てきます。第一ヨハネ2章を読めば、信仰の各段階を子ども、小さい者、若い者、父にたとえてあります。子どもや小さい者の信仰の人は、みことばどおり行えなくて、よく悟ることもできません。その後、若い者の信仰になって、もっと成長して父の信仰になれば、神の愛を感じて悟る次元も変わってくるのです。しかし、いくらこの地上で父の信仰になったとしても、肉の限界があるので、天国に比べるならやはり子どものようです。
  また、永遠の天国に比べるなら、この世は影のようなものです。影は日が沈めば消える虚像であり、実体ではなく、実体に似た模型にすぎません。この世は永遠の世界がどうなのか察するようにする影であるだけで、決して永遠ではありません。影のような人生が過ぎれば、その時には実体である天国がはっきりと現れます。
  それで、<第一コリント13:12>に「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」とあるのです。
  今は霊の世界を鏡でぼんやり映るものを見ているようですが、天国に行けば、顔と顔とを合わせて見るように、はっきり知るようになります。使徒パウロが愛の章を記した時代は約二千年前です。当時、鏡は銀、青銅、鉄などで作られていて、今のようにはっきり映らなかったので、「ぼんやり映る」と記したのです。

「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」 (第一コリント13:13)

 私たちの信仰が成長することにおいて、信仰と希望は非常に尊いものです。信仰があってこそ救われて天国に行き、信仰によってだけ神の子どもとされることができるからです。このように救いと永遠のいのち、天国が得られるので、信仰は宝の中の宝であり、答えの鍵です。また、希望を持つことによって、よりすばらしい天国を攻めて行けます。ですから、信仰があるなら、当然希望を持つようになります。神を信じて、天国と地獄を確かに信じるなら、天国を望みます。また、希望があるなら、罪を捨てて聖められるために努めて、熱心に忠実に仕えます。このように、信仰と希望は天国に行くその日まで、どうしても必要なものです。それでも<第一コリント13:13>には、愛が第一すぐれていると書かれています。なぜでしょうか?

第一に、信仰と希望は人間耕作を受けている間に必要なだけで、天国では霊の愛だけが残るからです。
  天国に行けば、すでにそこにいるので、見ないで信じる信仰がいらないし、希望もやはりいらなくなります。まことに信仰があって神を愛するなら、歳月が流れるほど、信仰が成長するほど、天国への望みがさらに大きくなるはずです。時間が経つほど、胸にしみるほど主にお会いしたくなります。このように天国の望みがある人は、どんなにこの地上で狭くて険しい道を歩んでも「つらい、苦しい」と言わず、どんな誘惑にも揺さ振られません。
  ところが、最終目的地である天国に行けば、信仰と希望はこれ以上必要ではありません。ただ愛だけが天国でも永遠に続くので、愛が一番すぐれていると書かれているのです。

第二、信仰によって天国を所有しても、愛がなければ、一番すばらしい場所である新しいエルサレムに入れないからです。
  私たちは信仰と希望をもって行ったほど、よりすばらしい天国に入れます。罪を捨てて美しい心に変えられたほど霊の信仰が与えられて、この信仰の量りに応じて入る天国が、パラダイス、一天層、二天層、三天層、新しいエルサレムに場所が分けられます。
  パラダイスは、イエス・キリストを受け入れてやっと救われるほどの信仰を持った人々が入ります。一天層は、神を信じた後、みことばを守り行おうと努力する人々が入ります。二天層は、神を愛してみことばどおり行って、神の国のために忠実に仕えた人々が入ります。三天層は、神をこの上なく愛して、悪はどんな悪でも避けて聖められた人々に与えられます。さらに新しいエルサレムは、神に喜ばれる全き信仰を持って、全家を通じて忠実であった人々が入ります。
  新しいエルサレムは、信仰によって心に全き愛を耕した神の子どもたちに与えられる天国で、愛の結晶体です。もともと新しいエルサレムには、神のひとり子であるイエス・キリストの他には入れる資格がありません。しかし、被造物である私たちも、イエス・キリストの十字架の尊い血の力を信じることによって義と認められ、全き信仰を所有すれば、新しいエルサレムに入る資格が与えられます。
  私たちが主に似せられて、新しいエルサレムにとどまるためには、主が歩まれた道について行かなければなりませんが、その道がすなわち愛です。この愛があってこそ、私たちに御霊の九つの実と八つの幸いが臨み、主のご性質に似せられたまことの神の子どもとしての資格が備えられるのです。
  したがって、私たちに信仰があれば天国に行くことができ、希望があれば罪が捨てられます。信仰と希望は確かに必要なものですが、全き愛がある時でこそ新しいエルサレムに入れるので、愛が一番すぐれているのです。


●まとめと適用
1. 信仰と希望と愛の中で一番すぐれているのは愛だと書かれている理由は何でしょうか?


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2. 次の説明の中で正しくないものを選んでください。
@天国では神様と主のお心をよく知っているから、預言が必要でない。
A天国では言語が一つだから、言っていることがわからない心配がない。
B天国ではこの地上の知識が必要ない。
C天国でも信仰と希望が必要だ。



●今週の課題
次回は「神の愛」について学びます。皆さんはどんな時に神様の愛を感じるでしょうか? 分かち合えるように考えてきましょう。

知って力にしましょう!
新しいエルサレムの都にある城壁の十二の土台石に込められた心
@碧玉(信仰) Aサファイヤ(まっすぐな心と節義) B玉髄(潔白と犠牲的な愛)
C緑玉(正しさときよさ) D赤縞めのう(忠実) E赤めのう(熱情と誠意)
F貴かんらん石(憐み) G緑柱石(寛容) H黄玉(善意)
I緑玉髄(自制) J青玉(心のきよさ) K紫水晶(柔和)


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