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愛の章 11

「愛はすべてを耐え忍びます」

読むみことば: 第一コリント13:7
覚えるみことば: 第一ペテロ1:7
参考にするみことば: マタイ5:11-12
教育目標: 私たちが神を愛すれば、真理にあってすべてを我慢して信じて期待し、どんな訓練がやって来ても十分に耐えられることを知る。
 私たちが愛と反対になるすべてを我慢するなら、それに伴う余波がやって来るものです。まるで大きい波が行ってしまえば、その後についてさざ波が立つように、すべてを我慢する時も、我慢することで終わるのではなく、訓練がやって来たり、心に苦しみが伴ったりもします。それで「すべてを耐え忍ぶ」ということは、すべてを我慢する時に押し寄せる余波を耐え忍ぶことなのです。

1. 愛はすべてを耐え忍ぶこと

 イエス様は「悪い者に手向かってはいけません。」と諭され、「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。」と勧められました(マタイ5:39-42)。
  このみことばどおり、悪い者に手向かわないで黙って我慢しても、人それぞれ感じる痛みが違います。心にどれほど愛を耕したかによって違ってきます。我慢することの余波はこれだけではありません。外部の環境から来ることもあります。相手が右の頬を打つから左の頬を向けたのに、容赦なく左の頬まで打ちます。みことばに聞き従って我慢したのに、状況が良くなるどころか、かえってもっと悪くなったように見えます。
  ダニエルの場合がそうでした。ダニエルは獅子の穴に投げ込まれることを知っていても、祈りをやめませんでした。神を愛したので、いのちの脅威の前でも妥協しなかったのです。また、自分をねたんで死に追い込んでいく人たちに、悪をもって立ち向かいませんでした。ダニエルがみことばどおり我慢すると、状況が直ちに良くなったでしょうか? そうではありません。かえって彼は飢えた獅子がほえたけっている穴に投げ込まれました。
  神のみこころのとおり愛と反対になることを我慢したので、直ちに試練が退くはずのようなのに、このような訓練が伴う理由は何でしょうか? これは私たちを完全にして祝福を下さるための神の愛です。農作物は雨、風、強い日差しに耐えて実るように、私たちも耐え忍ぶ時間を通して、中身がぎっしり詰まった実になるのです。訓練を通して神のまことの子どもとして出てくることが、まさに人間耕作の摂理なのです。

2. 訓練は神のまことの子どもへと導かれる祝福

 たとえば、悪を行う人を見るとき、うわべでは我慢しますが、心には相変わらず「会いたくない。理解できない」という感情があります。これを知っている敵である悪魔・サタンが訴えるようになれば、訓練が伴います。心に悪がないと認められるまでは、大きくても小さくても訓練というテストが伴うものです。
  もちろん悪が全くないとしても、訓練がやって来ることがあります。これは祝福を与えようとなさる訓練です。心に悪がない次元で終わるのではなく、より大きい愛、全き善を耕すように導かれるためです。個人に祝福を下さる時だけでなく、神の国の働きを進めていく時にも、このような原理が適用されます。神が大いなるみわざを施されるためには、それだけ公義が満たされなければなりません。大きい信仰と愛の行いをもって、答えられるような器であることを証明してこそ、敵である悪魔・サタンが訴えることができないのです。
  こういう理由で、神は時には試練の風雨に耐えるようにされます。その時、ただ善と愛をもって忍耐すれば、結局、勝利して栄光を帰すようになります。特に主の御名のために何のわけもなく受ける迫害や苦しみによく勝ち抜けば、必ず祝福が与えられます。それで、<マタイ5:11-12前半節>に「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」とあるのです。それでは、どのようにすべてを我慢して信じ、期待して耐え忍ぶのでしょうか?

3. すべてを我慢して信じ、期待して耐え忍ぶには

 第一に、訓練の中にいても、神の愛を堅く信じなければなりません。
  <第一ペテロ1:7>に「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」とあります。神は私たちがこの地上の人生が終わる日、称賛と光栄と栄誉を得る資格を備えるように、訓練を受けることを許されるのです。
  世と妥協しないでみことばどおり生きていくと、何のわけもなく苦しみを受ける時があります。そのたびに「私は神様に特別に愛されているんだ」と信じなければなりません。すると、かえってすべてが感謝の条件になります。自分をよりすばらしい天国に導くためにお与えになった訓練なので、どれほど感謝でしょうか。
  この愛を信じますが、最後まで信じなければなりません。信仰の試練には痛みが伴うこともあります。ところで、訓練の時間が長くなれば、「神様は本当に私を愛しておられるのだろうか」という気がする時もあります。そうするほど神の愛を信じて、耐え忍ばなければなりません。神が自分を愛しておられるので、よりすばらしい天国に導いてくださることを信じなければならないのです。神の愛を信じて最後まで忍耐すれば、結局、完全な者に変えられます。
 
第二に、訓練が希望を生み出す近道であることを信じなければなりません。
  <ローマ5:3-4>に「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。」とあるとおり、訓練によって練られた品性は希望を生み出す近道です。時には自分を見ると「いつ変えられるのだろうか」と思うこともあるでしょうが、磨かれたあげく輝く宝石のように、訓練によく耐えて、変えられてはまた変えられるなら、結局、神に似せられた完全な子どもになるのです。したがって、訓練を通り抜けるために不断の努力をしなければなりません。
  もちろん、もう少しやさしい道に行きたいのが人の心ですが、訓練を避けて行くと、それだけ遅くなるのです。もし周りにことごとにけちをつける人がいるとすると、いやな顔はしないけれど、心が穏やかでなくなります。この時も、避けることが良い方法ではありません。忍耐して相手をまことに理解して赦す、積極的な心が必要です。すると神が恵みを下さり、変えられるように導かれます。このように訓練の状況一つ一つが希望を実現する飛び石で近道になるのです。
 
第三に、すべてを耐え忍ぶには、善だけを行わなければなりません。
  みことばどおりすべてを耐え忍んだのに状況が良くならないと、多くの人が神を恨みます。「なぜ状況が変わらないんですか」とつぶやくのです。肉的に見れば、試練や患難は人や環境によってやって来るように見えますが、霊的にはそうではありません。すべての信仰の試練は敵である悪魔・サタンがもたらすものです。つまり、試練や患難は善と悪の戦いなのです。
  霊的な戦いで勝利するには、霊の世界の法則に従って戦わなければなりません。霊の世界の法則は、結局、善が勝利するということです。<ローマ12:21>に「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」とあります。時には善を行えば負けるようだし、損をするようですが、必ず善が勝利します。正しいお方である神が人の子らの生死禍福をつかさどっておられるからです。
  ひょっとして試練、患難、迫害がやって来れば、さらに善を行ってみますように。皆さんに「あの人のせいでつらい」と感じられる人がいるでしょうか? ともすれば不平を言って、すねて傍若無人で、とうてい理解できない人がいるでしょうか? 心にまことの愛を耕せば、耐え難い人がいなくなります。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:39)とあるとおり、相手を自分自身のように愛するので、すべてを理解していだくようになります。
  神も私たちをこのような愛で理解して、耐え忍んでくださっています。まことの愛を実践するには、すべての痛みを信仰と希望をもってよく耐え忍ばなければなりません。「霊の愛」という最上品の愛を作り出せば、やがて神の御座がある新しいエルサレムに入れます。
  したがって、皆さんは霊の愛を実践し、世に勝てる力を与えて私たちの心を輝く真珠のように美しくこしらえてくださった神に「すべてを我慢して信じ、期待して耐え忍んでくださってありがとうございました」という感動の告白をささげますように。


●まとめと適用
1. 霊の愛を実践するために正しくないことを選んでください。
@訓練が希望を生む近道であることを信じなければならない。
A訓練中も神の愛を堅く信じなければならない。
Bすべてを耐え忍ぶには、ただ善だけを行わなければならない。
C悪い者は痛い目にあわせてやらなければならない。




2. (    )の中に正しい言葉を入れてください。
すべてを我慢するということは、(    )と反対になるすべてを我慢することである。すべてを信じるということは、神を100%信頼して愛するので、どんな(    )でも信じてあげることである。すべてを(    )ということは、信じていることが現実として現れる時まで、望んで待つことである。すべてを(    )ということは、すべてを我慢する時に押し寄せてくる余波を耐え忍ぶことである。



●今週の課題
次回は「全き愛」について学びます。<第一コリント13:13>に、信仰と希望と愛の中で「一番すぐれているのは愛」だと書いてありますが、なぜ信仰と希望ではないのでしょうか? 考えてきましょう。

知って力にしましょう!
天国には心に耕した「愛」だけ持って行ける!
天国に欲しいもの一つを持って行けるならば、何を持って行きたいでしょうか? いくら貴重な黄金、宝石、金、ダイヤモンドでも、天国では何の使い道もありません。けれど、この世で生きている間に心に耕したまことの愛だけは持って行けます。天国でも永遠に持てるものが愛だからです。


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