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愛の章 10

「愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し」

読むみことば: 第一コリント13:7
覚えるみことば: 第一コリント13:7
参考にするみことば: 第一コリント15:19
教育目標: 霊の愛を実践するためには、何をどのように我慢して信じ、期待するかについて知る。
 私たちがイエス・キリストを受け入れて、みことばどおり生きようと努力していくと、寛容でなければならないことが非常に多いです。憤っても相手を寛容に受け入れなければならないし、自分の思いどおりに生きていこうとする自分自身も、寛容を尽くして変えられるように努力しなければなりません。それで、愛の概念を説明する時にも、一番先に「寛容」があるのです。
自分の心にある真理に逆らうものを捨てるために、まず「寛容であること」が必要なら、「すべてを我慢し」とは、どんな意味でしょうか? それは、自分の心を真理に耕した後に、相手によって味わわなければならないすべての苦しみを我慢することです。つまり、「寛容であること」より広い意味で、「霊の愛にそむくすべてを我慢すること」なのです。

1. 愛はすべてをがまんし

 聖書を読めば、私たちのイエス様も、罪人たちに対して黙って我慢してくださったことがわかります。罪人を救うためにこの地上に来られたイエス様はただ善だけを行われたのに、悪い人々はあざけってさげすみ、十字架につけました。イエス様はこんな人の子らであっても、黙って我慢してくださいました。そして、彼らのために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と祈られました。
  このようにイエス様がすべてを我慢された愛の結果として、イエス様を救い主として受け入れる人は誰でも神の子どもとされる、救いのみわざが起きました。死から解放されて、永遠のいのちに至るようになったのです。
  私たちのたましいの主人である父なる神も同じです。今も神はすべての苦しみを喜びをもって耐え忍んで待っておられます。数千年という歳月の間、人々が悪を行っても、善に変えられることを期待して待たれました。神を裏切って忌み嫌うべき偶像を拝んでも、もう一度ご自身がまことの神であることを現して見せられました。もし「あなたは不正ばかり行うからとうていだめだ。見込みがないな。もうこれ以上は我慢できない」と神が言われるなら、救われる人がどれほどいるでしょうか。
  私たちは、マンミンの聖徒たちを教えて祈ってくださる堂会長先生を通しても、どれほどひとりの魂が変えられる時まで愛をもって待ち、寛容を尽くしてくださるか悟れます。信仰が弱くて角のある性格の人でも、いつか変えられて神に栄光を帰すだろうと、いつも信仰の目で見て期待してくださいました。完全に変えられる時まで、聖潔の福音を教えて、切に祈ることをやめられませんでした。このようにすべてを我慢して待ちに待つと、結局、多くの聖徒が良い働き人に成長するようになりました。

2. 愛はすべてを信じ

 相手を心から愛すれば、信頼するようになるしかありません。そうかそうでないかと疑って遠ざけません。仮に過ちがあって、欠けたところのある姿が見えても、傷と思いません。これから変えられると信じて、かわいいなと見てあげるだけです。信じるということは相手を愛している証拠です。
  互いを信頼し合う夫婦は、愛でさらに強く結ばれるものです。しかし、互いに信じられない夫婦は、ことごとにけんかして疑います。愛の不足が言葉と行動にポンポンはね返って出てくるのです。信じることは相手への愛の大きさを示す尺度と言えます。
  神を完全に信じるということは、神を完全に愛することと同じです。アブラハムは神を完全に信じたので、神の友、信仰の父と呼ばれるようになりました。どれほど神に対する信仰が真実だったのか、自分のいのちより大切なひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさいと言われたとき、少しもためらわずに聞き従いました。死んだ者もよみがえらせることもできる神を完全に信じたからです。
  このように、愛はすべてを信じることです。神を完全に愛すれば、神のことばを100パーセント信じます。すべてを信じるので、またすべてを我慢します。霊の愛に逆らうすべてを我慢するには、必ず信仰がなければなりません。つまり、神のすべてのことばを信じる時でこそ、すべてを期待するようになり、熱心に心に割礼をして、愛と反対になるものを捨てられるのです。
  神は私たちをどのように愛されたでしょうか? 罪人だった私たちのために、ひとり子を惜しまず渡されることによって、救いの道を開いてくださいました。私たちがまず神を愛して信じたのではありません。神がまず私たちを愛してくださり、それを信じることによって神を愛するようになりました。
  初めはこのようなことを信じるから神を愛しますが、霊の愛を心に耕せば、愛するので信じる次元に至ります。霊の愛を心に耕したということは、真理に逆らう心をすべて捨てたので、できたことです。心に罪の性質がなければ、天から信じられる霊の信仰が与えられます。この時からは神のことばを疑ったり、信頼が揺らいだりすることがなくなります。霊の愛を完全に心に耕した人は、すべての人を信じます。相手が信じられるような人だからではなく、過ちが多くて欠けたところがあっても、信仰の目で見てあげるのです。
  したがって、皆さんはすみやかに悪はどんな悪でも避けて、すべての人を信じてあげる霊的なまことの愛を心に耕しますように。自分に対しても同じです。自分の欠けている姿に失望してへたり込むのではなく、自分をあきらめずに変えさせてくださる神の力を信じなくてはなりません。聖霊様はいつも私たちに「できる」と勇気を与えてくださいます。その愛を信じて、変えられるために努力すれば、その信じたとおりに成し遂げてくださいます。ですから、信じるということはどれほどうるわしいことでしょうか。皆さんは自分だけでなく、どんな人も信じてあげる霊の愛を実践しますように。

3. 愛はすべてを期待し

 人は、相手の行動が気に入らないと、自分の願うとおりに変えようとします。ささいなことでもけんかして受け入れられないのに、相手を変えさせるとは話になりません。ですから、相手が変えられることを期待するより、自分がまず変えられるために努めて、何としてでも愛の目で見て、待ってあげなければなりません。
  「すべてを期待する」とは、信じていることが実際に現れる時まで望んで待つということです。神を愛するなら、みことばを信じて、みことばどおりになされることを期待するようになります。やがて美しい天国で神ととこしえに愛を分かち合って生きるようになることを期待して、すべてを我慢しながら走って行きます。
  すべてを信じて期待することがない世の人々は、美しくて幸せな天国への望みがありません。将来の希望がないから、現実がすべてであるかのように生きていきます。肉の欲望を満足させるために、もっと多くを手に入れて楽しむために生きていきます。しかし、満たしても満たしても満足がなく、未来に対する漠然とした不安の中で生きて、結局、死を迎えるようになるのです。
  しかし、神を信じる子どもたちはすべてを期待するので、世と聖別された狭い道を歩みます。なぜ狭い道と言うのでしょうか? これは神を知らない人、信じない人のほうから見てそうだ、ということです。イエス・キリストを受け入れて神の子どもとされれば、世の情欲的なものや娯楽を求めません。主日には一日中教会で礼拝をささげて、神の国のために忠実に奉仕するなど、みことばどおり生きていきます。このこと自体が信仰がなければ大変なことので、狭い道だと言うのです。
  使徒パウロは「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」(第一コリント15:19)と言いました。肉的に見れば、クリスチャンは世で多くのことを自制して、敬虔な生活を送らなければならないから、大変そうに見えるのです。
  しかし、この道が永遠のいのちの道なので、大変ではなく幸せなのです。このように愛は、信じているすべてのことが実際に現れる時まで、変わらず待って期待することです。すべてを信じて期待すれば、非常に大きい力が発揮できます。
  ところが、ある人は聖徒を顧みるとき、自分の思いの中で相手を決めつけて、さばきます。「あの人は変えられにくいようだ。相変わらずあんな姿だなあ」とがっかりして、あきらめてしまいます。神の愛で変えられるだろうと、期待の目で見なければなりません。「あなたもやれます!」と励まして、絶えず祈ってあげなければいけません。皆さんは、千年を一日のように待っておられる神のお心のように、魂たちを希望の目をもって期待し、愛をもって祈るようお願いします。


●まとめと適用
1. 霊の愛を実践するために「寛容であること」と「すべてを我慢すること」の違いを書いてください。


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2. ひょっとして皆さんの周りに、我慢して、信じて、期待してあげなければならない対象がいるでしょうか? 霊の愛を実践するために、どれほど祈っているでしょうか?


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●今週の課題
次回は霊の愛の最後の項目「愛はすべてを耐え忍びます」を学びます。今までに学んだ14の項目を復習してきましょう。

●「用語」を知って力にしましょう!
 「コリント教会」について
使徒パウロの宣教旅行を通して、ギリシャで最も活発な商業都市であるコリント地方に建てられた教会である。コリント教会には御霊の賜物があふれていたにもかかわらず、各種の問題が山積していた。紛争、訴訟、賜物を分け与えていただく問題、復活論争、それどころかパウロの使徒権まで問題にした。また、にせ預言者が入ってきてそしり、不品行のような世の文化が入ってきて教会を汚した。貧富の格差に、偶像にささげた肉を食べることでも争ったので、このような問題を解決するために使徒パウロが書いた手紙がコリント人への手紙第一・第二である。


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