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愛の章 9

「愛は不正を喜ばずに真理を喜びます」

読むみことば: 第一コリント13:6
覚えるみことば: ヨハネ15:14
参考にするみことば: 第二歴代19:7、ヨハネ14:6
教育目標: 神が喜ばれない不正とは何であり、霊の愛は真理を喜ぶというみことばの意味を悟るようにする。
 先進国家であるほど正直な人が成功する確率が高いです。一方、後進国であるほど不正、腐敗と不義が蔓延していて、お金で解決できないことがないと言っても言い過ぎではありません。不正は国家全体の興亡盛衰を決定し、個人の人生にも莫大な影響を及ぼします。それで、神は不正を喜ばずに真理を喜ぶことがまことの愛だと教えてくださいました。

1. 愛は不正を喜ばない

 「不正を喜ばず」とは、愛の属性のうち「人のした悪を思わず」とどう違うでしょうか?「人のした悪を思わず」とは、たとえ自分に悪を行う人がいても、心にどんな悪もいだかないという意味で、「不正を喜ばず」とは、行いとして現れる良くないことを喜ばず、それに加わらないことを言います。
  たとえば、自分を傷つけたことのある裕福な友だちを見たとき、そねんでねたみ、「あの人はいい暮らしをしてるのに私は何なの? あの人が困ったらいいのに」という思いがふとよぎったとしましょう。これは心に悪をいだくことです。
  ところで、友だちが詐欺にあって不渡りを出したとき、「いい暮らしをしていると威張っていたのにいい気味だ」と思い、「やった」と言ったなら、これは不正を喜ぶことです。さらに進んで、悪い行いに同調して加わったなら、積極的に不正を喜んだことになります。

  第一、世の人も不正だと思う場合
  不正には、まず世の人が見ても不正だと思う「一般的な不正」があります。人が正しくない方法で得た財産や利益を手に入れて、人を欺いたり強制的に奪うことなどです。神は正しいお方で、不正が全くありませんが、世には人をだますなど、不正がどんなに多いでしょうか。それで、<第二歴代19:7>に「今、【主】への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行いなさい。私たちの神、【主】には、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。」とあるのです。
  人の目は隠せても、神を欺くことはできないので、神を恐れる心で正直で誠実に生きなければなりません。神を愛して神に愛される人は、決して他人に害を及ぼしたり、国の法を犯してまで自分の利益を求めたりしません。正当な労苦の代価以外には願わないのです。

  第二、神が不正と思われる場合
  主にあっての不正とは、一般的な意味とは少し違います。世の法を犯したり、人に被害を与えることだけでなく、神のことばに外れるあらゆる罪がすべて不正です。不正は、心の悪が具体的なかたちとして現れた罪であり、罪の中でも特に肉の行いに当たります。つまり、心にある憎しみ、そねみ、ねたみのような悪が、争い、暴行、詐欺、殺人など具体的な行いとして現れたものです。
  <第一コリント6:9-10>に「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」とあります。つまり、不正を行う人は天国に行けないということです。
  このように、神にあって不正は救いと直結しています。ですから、不正を行っている信仰の兄弟を見たら悲しんで、愛をもって祈って、みことばどおり生きるように助けなければなりません。ところが、かえって「私も適当に、ちょっと楽に信仰生活をしたい」とその人をうらやんだり、それに同調したりしたら、主を愛すると言えません。
  主は傷もしみもない正しい方だったのに、悪い私たちの身代わりとなって、十字架を負われました(第一ペテロ3:18)。まさに神と私たちとの間の罪の隔ての壁を壊すためになだめの供え物になって、天国へと私たちを導いてくださったのです。
  こんなに大いなる愛を悟ったら、決して不正を喜んではいけません。不正を喜ばない人は単に不正を行わない次元で終わらず、みことばどおり生きていきます。<ヨハネ15:14>に「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。」とあります。不正を喜ばないで悲しむ人は、それだけ主の心に似せられて、愛が豊かなのです。

2. 愛は真理を喜びます

 私たちが神を愛するなら、不正を行わないだけでなく、真理を行うようになります。さらに真理を喜ぶようになります。愛は真理を喜ぶ積極的な表現です。それなら、「真理を喜ぶ」とは、どんな意味でしょうか?

  第一、「福音」を喜ぶこと
  福音とは、私たちがイエス様によって救われて天国に行く、という良き知らせです。多くの人が真理を見つけるために思想や哲学、学問を探求して、いろいろな宗教の教理で答えを得ようとしています。
  しかし、<ヨハネ14:6>に、このようなすべてを捨ててまことの真理とは何かが明快に書かれています。まさにイエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言っておられるのです。つまり、まことの真理とは主、すなわち、イエス・キリストだということです。主を通してでなければ、天国に行く人は誰もいません。
  皆さんは福音を聞いて、イエス・キリストを受け入れることによって救われました。主の尊い血で罪が赦されて、地獄に行かず、天国に行けるようになりました。したがって、人生の目的を知って、価値ある生き方をするようになったのですから、福音を喜ぶのは極めて当然なことです。それで、熱心に福音を伝えるのです。世の人が主を受け入れて救われ、神の国が広げられることを喜ぶからです。皆さんは、ひとりでも多くの人が福音を聞いて主の愛を悟れるように、広くキリストの香りを放ちますように。

  第二、真理に属するすべてのことを喜ぶこと
  霊の愛があれば、善、愛、公義など真理に属することを見て聞いて行うことを喜びます。たとえば、みことばに「仕えなさい、理解して赦しなさい」とあれば、喜んでみことばどおり聞き従います。相手を嫌んで、そねんでねたみ、さばいて罪に定めることがあまりにもいやになります。それで、真理を喜ぶ人は、相手がうまくいけばともに喜びます。そねんだりねたんだりしません。「相手が失敗したら」と悪い思いをしたり、相手の不幸を喜んだりすることは、想像さえできません。不正なことが起きるのを見れば悲しみます。
  また、真理を喜ぶ人は移り変わらない心、真実、正直さなど、良い心を好みます。良い話と行いを喜びます。<第三ヨハネ4>に「私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。」とあります。神はご自分の子どもたちが真理に歩んでいることをとても喜ばれます。したがって、皆さんは霊の愛を心にぎっしり満たして、真理に属することを見るとき、さらに喜んで感謝しますように。

  第三、みことばを信じてそのまま行おうと努力すること
  世と友になっていた私たちが、初めから真理だけ喜ぶことはやさしくありません。心に闇と真理に逆らうものがあるので、悪いことを思って、不正を喜んだりしました。しかし、だんだん変えられて、真理に逆らう心を捨てるにつれて、真理だけ喜ぶ心になります。そうなるまでは熱心に努力する過程が伴います。
  たとえば、初心の者だけ見ても、礼拝をささげることがただ幸せなだけではないことがわかります。教会に来てあまり経っていないので、真理の味を知らないのです。疲れたり、心がよそにあったりします。しかし、ますますみことばに恵みを受け、祈ることによって変えられていきます。
  したがって、聖殿に来て礼拝をささげる行いは、みことばどおりに従おうとする努力だと言えるでしょう。つまり、真理を喜ぶことです。その理由は、みことばを聞いて、天国と地獄があることを信じるからです。信仰が成長するほど、天国で受ける報いを期待して、熱心に聖められて忠実に仕えることに努めます。たとえ今は真理を100パーセント喜べないとしても、ひとりひとりが信仰の量りに応じて最善を尽くすことが、まさに真理を喜ぶことなのです。皆さんは不正を捨てて、絶えず信仰によって聞き従って、霊の愛を完全に心に耕しますように。


●まとめと適用
1. (   )の中に正しい答えを入れてください。
愛は「(   )した悪を(   )ない」とは、自分に悪を行う人がいても、心にどんな悪もいだかないという意味である。
愛は「(   )を喜ばない」とは、行いとして現れる良くないことを喜ばず、それに加わらないことを言う。


2. 「愛は真理を喜びます」とは、何を喜ばなければならないでしょうか? 下に書いてください。
@
A
B




●今週の課題
次回は「愛の章」の10回目「愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し」を学びます。「愛」のところに自分の名前を代入してみて、今の自分をチェックしてみましょう。

●「人物」を知って力にしましょう!
 不正を行って滅びてしまった「アカン」
エリコの町を陥落させたとき、戦利品を隠して神の御怒りを引き起こして殺された人である。ヨシュアは聖絶のものに手を出すなと命令したが、アカンはシヌアル産(バビロン産)の美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本を隠す。これによってイスラエルはアイの戦いで敗れてしまう。結局、アカンは彼の子どもたちと所有物とともに石で打ち殺され、彼らのものは火で焼かれ、その上に大きな、石くれの山が積み上げられた。そこがまさにアコルの谷である(ヨシュア記7章)。


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