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愛の章 4

「愛は親切です」

読むみことば: 第一コリント13:4
覚えるみことば: マタイ5:5
参考にするみことば: 詩篇37:11
教育目標: 霊の愛を心に耕すために、霊的な親切とは何であり、どうしたら親切な心に変えられるのか悟るようにする。
 心理学者ハロー教授が赤ちゃんザルたちの前に二つの母ザル人形を置いて、実験をしました。一つの人形は針金で、もう一つは柔らかい布で作りました。そして、それぞれに哺乳びんを差しておきました。初日、赤ちゃんザルたちは二つの人形にあるミルクをどちらも飲みました。ところが、次の日からは針金で作った人形には一匹も行かなくて、柔らかくて温かい人形にだけ集まりました。このように動物も、冷たくて堅いものよりは柔らかいものを好みます。
  同じように人間関係でも、鋭くて冷たい人よりは温かい人を好み、そんな人のふところに宿って休もうとします。霊の愛の二番目の属性である「親切」は、このように温かく柔らかい心で人の心をつかむのです。

1. すべての人をいだく親切な心

 霊的に「親切」とは、その人の身になってすべての人をいだける心、多くの人が宿って休める心のことを言います。綿を思い浮かべれば、もっと簡単に理解できます。綿はいくら固い物体がぶつかってきても、音がしません。かえってふんわり包んでしまいます。また、親切な心は、多くの人が宿って休める大木のようなものです。暑い夏の日差しを避けて汗を引かせるために、人々が木陰に集まるからです。このように親切な心を持っている人ならば、多くの人が宿るものです。
  世ではしばしば、性分がおとなしくて怒らず、自己主張が強くない人を優しい人だと言います。人には「これこれの人が優しくて親切だ」という自分なりの基準があります。しかし、人のほうで親切だと思うことと神が認められる親切とは違います。いくらおとなしくて優しく見えても、神が認められなければ、まことに親切だと言えません。
  たとえば、もともと性分が消極的でおとなしく、他の人の言うことをよく聞いたり、腹の中は煮えくり返っていても、抑えて我慢することもあります。このような人を優しくて親切だとは言えません。心の中から悪を捨てないで、我慢しているだけだからです。
  まことに親切な人は、心に悪がなくて賢いし、霊の愛をもって悪い人にも立ち向かわないで、心にいだきます。かといって、間違いを犯したのに、何が何でも赦しておおってあげるという意味ではありません。時には正しく威厳をもって治めます。したがって、霊的な親切とは、内面にある親切の心とともに、外面的にも徳を兼ね備えた状態を言います。

2. 親切を心に耕した尺度は聖潔

 霊的な親切を心に耕すためには、何より心の悪を捨てて聖められなければなりません。相手の身になってその人のために尽くす人は、綿毛のように、誰がぶつかって来ても音がしないで、ふんわりと包んであげます。心に悪がないから、どんな人でもその人の身になってあげて、誰ともぶつからないのです。
  もし私たちの心に憎しみ、そねみ、ねたみ、自分の義と枠があれば、相手をいだくことができません。硬い石や鉄に物が落ちれば、壊れたり、音がしてはね飛ばされるように、自分というものがあれば、誰かがちょっといらだたせるようなことをしても、気を悪くします。相手の過ちをおおってあげるより、さばいて罪に定めて、ひそひそ話をします。これは器の小さい人で、その心に汚れた真理に逆らうものが入っているので、真理の心をそれ以上大きくできないのです。ですから、誰かに指摘されれば、かっとなって心が傷つきます。誰かが内緒話をすれば、自分の悪口ではないかと、じろっとにらんでさばくのです。
  したがって、心に悪がないことは親切の実を結ぶ基本条件です。神は必ず聖められてこそ「まことに親切だ」と認めてくださいます。心に悪がなくてこそ、相手を善と愛をもって見られるからです。親切な人は、すべてにおいて慈しみと憐れみの心で相手を見てあげます。さばいたり罪に定めようとしないで、善と愛をもって理解しようとするから、悪い人でもそのぬくもりに心が溶けます。完全に聖められたなら、聖霊に正確に働きかけられて、聖徒の様子をよく見分けて、最も良い道に導けます。

3. 親切を完全にする徳

 辞書を見れば、徳とは「精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。」と定義されています。霊的にも同じです。徳のある人は心が正しくて公正だし、人としての道を踏み行います。つまり、すぐれた品性をもって人を治めるのです。相手を力で屈服させません。正しい言葉と行いで相手の欠けているところを理解して、受け入れることによって、多くの人の心をつかむのです。ですから、人々に信頼されて愛されます。
  親切を完全する徳は、私たちが着る服のようなものです。いくら立派な人でも、汚くてみすぼらしい姿であれば、格が落ちるように見えます。このように、親切な心があっても、徳を兼ね備えていなければ、その真価を発揮しません。
  たとえば、相手の身になっているつもりで話だけしたとすれば、必要のない長話になります。こういう人は何かの悪意があるのではないけれど、教養が欠けているので、相手に信頼されません。また、心が優しくて、わだかまりを持ったり、相手に被害を与えることはないけれど、他の人の働きを積極的に助けないで、細やかな配慮が足りない人がいます。こういう人もやはり徳があるとは見られません。
  もしイエス様が弟子たちや周りの人たちとふざけて冗談を言って、服装が乱れていて、サンダルを引きずりながら歩かれたとすれば、どうでしょうか? 人々から尊敬されにくいでしょう。しかし、イエス様は外見から霊的な威厳と権威がにじみ出ていたので、弟子たちはもちろん、人々もあえて無作法に対することができなかったのです。どれ一つ乱れたところのないお姿だったのです。<マタイ12:19>に「争うこともなく、叫ぶこともせず、大路でその声を聞く者もない。」とあるとおりです。
  花にいくら蜜が多くても、きれいな色があまり目立たないし、香りもしないならば、ハチやチョウが飛んできにくいでしょう。同じように、優しい人であっても、言葉と行いに徳がなければ、その親切の心が完全に輝くことができません。反対に、言葉と行いに徳があるように見えても、霊の愛がなければ、外面だけ装ったにすぎません。華やかな服をきちんと着ても、その人の内面が立派でなければ、その外面には価値がないのです。

4. 親切な人が受ける祝福

私たちが、心に悪がなくて貧しくなり、へりくだって柔和になって、それに徳を兼ね備えるなら、神はどんな祝福を下さるでしょうか? <マタイ5:5>に「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」とあります。また、<詩篇37:11>には「しかし、貧しい人は地を受け継ごう。また、豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう。」とあります。ここで「地」とは、天国の場所を意味し、「地を受け継ぐ」とは、将来、天国で大きい権勢を受けるようになるという意味です。
  なぜそうでしょうか? このような心の人は、神の心をもって人々を力づけて恵みを及ぼすからです。親切であるほどさらに多くの魂が宿って、彼らを救いに導けるのです。多くの人の身になれる者になったということは、それだけ低くなって人に仕えたという意味です。
  天国の権勢は、このように仕える人に与えられます。<マタイ23:11>に「あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。」とあるように、仕えるほど偉大な者になります。このような人は将来、天国で大きい権勢を受けて、それだけ広くて大きい地を受け継ぎます。たましいに幸いを得ているので、すべての点で幸いを得る祝福を受けるだけでなく、天国でもとこしえに神に愛されて、数えきれない魂にとって尊敬の対象になるのです。
  神は罪と悪がない聖められた人を喜ばれます。ですから、罪と戦って血を流すまで抵抗し、悪はどんな悪でも避けて聖められ、内面の親切とともに外面でも徳を兼ね備えなければなりません。このようにまことに親切な心になり、この地上でも多くの人をいだいて、天国でも偉大な者になりますように。


●まとめと適用
1. 霊の愛の「親切」に関する聖句でないものを選んでください。
@民数記12:3 A詩篇37:11 Bマタイ5:5 C第一テサロニケ5:16

2. 次の説明のうち、間違っているものを選んでください。
@徳がある人は心が正しくて公正だし、人としての道を踏み行う。
A親切とは、すべての人をいだける心、多くの人が宿って休める心のことである。
B柔和な者は、この地上で広い地を報いとして受ける。
C親切とは、内面にある親切な心に外面でも徳を兼ね備えた状態である。

3.聖書で「地上のだれにもまさって非常に謙遜」と神様から言われた人は誰でしょうか?



●今週の課題
次回は「愛の章」の五回目「愛は人をねたみません」を学びます。ねたみゆえに大きな問題が起きた例を聖書の中から探してきましょう。

●「用語」を知って力にしましょう!
才能より大切な「徳」 徳があれば心が正しくて公正だし、人としての道を踏み行う。相手の欠けているところを理解していだくだけでなく、言動が正しいし、相手に信頼される。徳は人の身分を表してくれる衣服のようなものである。昔から先人は才能より徳を強調して「才の徳にまさらず、徳の才にまさる」と言った。つまり、才能が徳に先立ってはならないし、徳が才能より優れていなければならないという意味である。


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