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愛の章 3

「愛は寛容であり」

読むみことば: 第一コリント13:4
覚えるみことば: マタイ5:44
参考にするみことば: マタイ5:39-40
教育目標:「愛は寛容であり」というみことばに含まれた霊的な意味を調べてみる。
 せっかちな人は、自販機でコーヒーが全部落ちる前に紙コップを取り出そうとして、手をやけどしたりもします。その少しの間が待てません。信仰生活でも、寛容を尽くして待てなくて、あせる人々がいます。たとえば、みことばに背く真理に逆らうものを捨てるために断食して切に祈ったのに、罪の性質が発見されれば、すぐ気を落としてしまいます。また、答えられるために心を込めて献金して祈ったのに、何のみわざも現れなければ、不安になって疲れてしまいます。したがって、私たちが心を改造するのに必ず備えるべき徳目がまさに「寛容」なのです。

1. 愛は寛容であるとは?

 <第一コリント13:4>以下を読めば、霊の愛を実践するのに必要な15の項目があります。その一番初めがまさに「愛は寛容であり」です。はたして「愛は寛容であり」に込められた神のみこころは何でしょうか? それは、愛することにおいてあうようになるいろいろな試練と「自分自身」をまず受け入れなさいということです。
  たとえば、自分は何の過ちもないのに、誰かがそねんでねたんで嫌うとしましょう。こんな人が自分の周りにいるなら、かわいいどころか避けたくて、偶然にでも会いたくないでしょう。ですから「どうやってその人を愛することができるだろうか」と心配になります。しかし、霊の愛をしようとするなら、このような人々までも寛容を尽くして愛さなければなりません。相手が訳もなく自分をけなして嫌っても、心を治めて、寛容を尽くして相手を愛さなければなりません。
  このように、みことばに聞き従って愛そうとする時にあうようになるすべての困難を受け入れて耐え忍ぶことが、まさに「愛は寛容である」という意味なのです。
  ところで、愛の章の「寛容」は御霊の九つの実の「寛容」に比べれば、小さい範疇に属します。御霊の実の「寛容」とは、神の国と義のためにすべてのことに寛容を尽くすのに対して、愛の章の「寛容」は相手を愛するために寛容を尽くす個人的な次元だからです。それで、愛の章の「寛容」は、御霊の実の「寛容」の範疇に含まれるのです。

2. 寛容を尽くす愛の威力

 <マタイ5:44>に「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とあります。敵とは、怨みが凝り固まるほど自分に害を及ぼした人です。皆さんはこんな敵でも愛せるでしょうか? また、主を信じるという理由で、福音を伝えるという理由で、ののしって迫害する人のために祈れるでしょうか? 罪人のためにこの地上に来られたイエス様は敵をも愛して、迫害する人々のために祈られました。人の子らはただ良いわざだけを行われたイエス様を、むしろあざけって蔑み、軽んじました。それでもイエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、とりなしの祈りをささげられました。
  イエス様は神と敵になった人の子らを寛容を尽くして愛されました。その結果、主を救い主と信じて受け入れる人は誰でも、敵である悪魔の奴隷から解放され、神の子どもとされる、驚くべき救いのみわざが起きました。このように愛の力は偉大です。
  それなら、皆さんはどれほど寛容でいられるでしょうか? 訳もなく皆さんをけなして嫌う人でも、寛容にそのすべてを受け入れて愛せるでしょうか? あるいは、敵でもない妻、夫、子ども、信仰の兄弟たちに「とうてい我慢できない」と言ってはいないでしょうか?
  <マタイ5:39-40>に「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」とあります。人の下着をくれと言うとは、どんなに恥知らずでしょうか。このみことばは、愛に愛を加えなさいということです。
  最近は、他人が自分の身辺や財産に少しでも害を及ぼせば、寛容を示せなくて直ちに訴訟したりもします。相手が妻、夫、両親、子どもだとしても、関係ありません。むしろ我慢してじっとしていれば、愚か者扱いされます。
  それなら、私たちも世の人のように、仕返ししなければならないでしょうか? そうではありません。自分に悪を行う者だとしても、悪をもって報いるのではなく、寛容を尽くして善をもって対さなくてはなりません。ひょっとして「悔しくて、どうやってそうできるでしょうか」と反問する方がいるでしょうか? 皆さんに信仰と愛があるならば、いくらでもできます。まさにひとり子イエス様を殺した罪人に、寛容を尽くして憐れみを施される父なる神の愛と信仰があるがゆえにです。神から私たちがこういう愛をいただいたということを信じるなら、いくら大きい害を及ぼす人でも赦せます。いのちも惜しまず渡してくださった主を愛するなら、愛せない人はいないのです。

3. 霊的な寛容を心に耕そうとするなら

 ある人は憎しみ、憤り、穏やかでない心を無理にギュッと抑えておいて、自分の限界点に達すれば爆発してしまいます。また、内気な性格のため表に現せなくて、ストレス性の病気にまでかかる人もいます。
  神が願われる寛容とは、変わらず最後まで寛容であることです。これは「寛容である」という言葉もいらない「寛容」そのものの心なのです。憎しみ、むなしさなどを心に積んでおくのではなく、それらを起こさせる根本の悪を引き抜いて、いつくしみと愛に昇華させることが霊的な意味の寛容です。
  心に悪がなくて霊の愛だけが満ちているなら、敵をも愛することが難しくありません。最初から敵になることがないのです。いくら理解できない人でもかわいく見えて、過ちや短所があっても嫌うのではありません。自分を嫌って憎んでも、憎らしくならないのです。
  一方、心の中に憎しみ、争い、そねみ、ねたみなど真理に逆らうものがあれば、いくら良い人を見ても、自分の心に合わなければ短所が目について、嫌う心が先に出ます。また、自分が嘘をよくつくなら、相手がいくら真実を言っても、嘘をついているように思うのです。ですから、悪はどんな悪でも避けるために努力しなければなりません。
  それなら、自分に悪を行う者にどれほど寛容を示さなければならないでしょうか? これについてペテロがイエス様に尋ねます。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」(マタイ18:21)。すると、イエス様は「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と言われました。「七」は完全を意味する数で、完全に赦しなさいという意味です。つまり、無限大の赦しと愛のことを言っています。
  私たちが一朝一夕にして嫌う心を愛に変えることはやさしくありません。絶えず努力しなくてはなりません。憤っても、根に持つことがあっても、それぞれの信仰の量りに応じて、それを捨てるために絶えず寛容を尽くして努力すれば、心がますます真理に変えられて、霊の愛が育っていきます。心の奥深くに根を下した罪の性質は、聖霊に満たされて、火のように祈る時に捨てられます。合せて、いくら憎らしい人でも愛の目で見て、善を行おうとする努力が重要です。
  このようにしていけば、いつの間にか心から憎しみがなくなって、相手を愛することができるようになります。誰とも引っかかることがなくて、憎らしい人がいないから、まるで天国にいるように幸せなのです。人は幸せを感じるとき、「天国のようだ」と言います。心に天国があるということは、すべての真理に逆らうものを捨てて、善と愛だけぎっしり満ちている状態を言います。こういう状態になれば、寛容である必要がなく、皆を愛するので、いつもうれしくて幸せです。心に悪がなくて善良な人であるほど、寛容を示すこともありません。霊の愛を心に耕したほど、いやいやながら相手を受け入れるのではなく、安らかな心のままで相手が変えられるのを待ってあげます。
  それなら、天国にも寛容があるでしょうか? そこには涙、悲しみ、苦しみ、悪がなくて、ただ善と愛だけがあります。相手を嫌うこともなくて、怒ったり癇癪を起こすこともありません。何かの悪い感情を抑え込んで治めること自体がないのです。愛そのものであられる神が「愛は寛容であり」と言われたのは、人のほうで理解できるように表現されたのです。私たちが悪はどんな悪でも避ければ、いくら悪い者でもあっても、寛容に相手を受け入れて、完全に愛することができます。


●まとめと適用
1.「愛は寛容であり」というみことばの意味として、間違っているものを選んでください。
@愛することにおいてあうようになるいろいろな試練と「自分自身」をまず受け入れなさいということである。
A神が願われる寛容とは、変わらず最後まで寛容であることである。
B霊的な意味の寛容とは、心にある悪が動くようにさせる根本の悪を引き抜いて、いつくしみと愛に昇華させることである。
C天国に行っても、愛を実践するために寛容でなければならない。

2. 皆さんには寛容を尽くさなければならない対象がいるでしょうか? それならその理由は何であり、どうしたら寛容を尽くさなくてもただ愛せるようになるでしょうか?



●今週の課題
次回は「愛の章」の四回目「愛は親切です」を学びます。親切でしたつもりのことが相手にとってはそうでなかったことはないでしょうか? 霊的な「親切」とはどんなものか考えてきましょう。

●「用語」を知って力にしましょう!
 御霊の九つの実の「寛容」を三つに分ければ?
第一、自分の心を変えさせるための寛容(心の悪を捨ててすべてを受け入れる)
第二、他の人に対する寛容(すべての人を受け入れる)
第三、神と自分との間の寛容 (祈りに答えられるまであきらめない)


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