ホーム > 聖書の学び > 愛の章1
←トップへ戻る ←聖書の学びへ戻る  ||       << 愛の章1 >> 次へ(2)→

愛の章 1

「霊の愛と肉の愛」

読むみことば: 第一コリント13:4-7
覚えるみことば: 第一コリント13:13
参考にするみことば: 第一サムエル18:1-4
教育目標: 神が願われる霊の愛と自分の利益によって変わってしまう肉の愛について調べてみる。
 あるケーブル放送で既婚女性を対象に「仮に結婚をもう一度すれば、今の配偶者をまた選ぶか?」というアンケート調査をしました。結果は、また結婚するという人はやっと4%にすぎませんでした。明らかに愛して結婚したはずなのに、なぜその心が変わったのでしょうか? それは霊の愛をしなかったためです。
 はたして神が願われる霊の愛とは何か、肉の愛と比べて調べてみましょう。

1. 霊の愛とは?

 辞書を見ると、「愛」とは「親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。」と定義しています。しかし、神が言われる愛は、さらに次元の高い霊の愛のことです。つまり、相手の利益を求めて、喜びと希望といのちを与えるだけでなく、永遠に変わることのない愛なのです。
 聖書を読めば、ダビデとヨナタンがこのような霊の愛を分かち合いました。ヨナタンはイスラエルの王、サウルの息子です。彼はダビデが石投げでペリシテの敵将ゴリヤテを倒すのを見て、神の霊が臨んだ勇士であることがわかりました。自分も軍隊を率いる将軍だったので、彼の勇猛さに憧れ、心が熱くなりました。その時からヨナタンはダビデを自分と同じほどに大切にして愛しました。ダビデにはどんなものを渡しても、惜しくなかったのです。
 <第一サムエル18:1-4>を見ると「……ダビデがサウルと語り終えたとき、ヨナタンの心はダビデの心に結びついた。ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛した。……ヨナタンは、自分と同じほどにダビデを愛したので、ダビデと契約を結んだ。ヨナタンは、着ていた上着を脱いで、それをダビデに与え、自分のよろいかぶと、さらに剣、弓、帯までも彼に与えた。」とあります。
 ヨナタンはサウルの長男で、王位を受け継げる後継者でしたが、彼には私心や欲がなかったので、王という位に執着しませんでした。むしろサウルが王位を守るためにダビデを殺そうと血眼になったとき、いのちの危険を押してダビデを助けました。このような愛が死ぬ時まで移り変わらなかったのです。
 ヨナタンがギルボアの戦闘で戦死すると、ダビデは飲食をやめて、ヨナタンの死を悲しみました。王になったダビデはヨナタンの子メフィボシェテを捜して、サウルの財産をみな返し、王宮で自分の息子のように面倒をみました。
 このように霊の愛は、たとえ自分にとって益にならず、害になっても、いのちが尽きるまで変わらない心で愛することです。何かの代価を願ったり、自分によくしてくれるから愛するのではありません。何の条件もなく、純粋に自分を犠牲にして、相手のために変わらず与えられる愛なのです。

2. 私たちに向けられた神と主の変わらない愛

 ひょっとして皆さんは霊の愛と反対である肉の愛のゆえ、心の苦しみを味わったことがあるでしょうか? 簡単に変わってしまう愛に心を痛めて、さびしくなるとき、私たちを慰めて友になってくださる方がおられます。まさに主イエス様であります。
 主は何の罪も咎もなかったのに、人々に顔を背けられてさげすまれたので、誰より私たちの心をよく知っておられます。天の栄光を後にしてこの地上に来られ、苦しみの道を歩まれ、私たちのまことの慰め主になられました。そして、十字架で死なれるまで、私たちにまことの愛を下さいました。
 私たちは近くにおられる堂会長先生を通しても、神の濃い愛が感じられます。堂会長先生は神を受け入れる前、あらゆる病気で苦しみながら、貧しい暮らしをしていました。7年間の闘病生活のあげく、残ったのは病身と雪だるまのように増える借金だけでした。愛する人々はひとり、ふたりと離れて行き、徹底的に顔を背けられ、さげすまれていました。ひと筋の希望さえなく、死の直前でさ迷っていたとき、神は堂会長先生に御手を差し伸べてくださいました。その時、ただ一度ですべての病気がいやされて、新しいいのちを得ました。その後、主イエス様は堂会長先生のすべてになられ、堂会長先生は数多くの魂を救うために、今も休まず働きに専念しています。
  このように、神が下さる愛は価なしの愛です。私たちがまず愛したのではありません。神のほうがまず先に訪ねてきて、御手を差し伸べてくださったのです。
  <イザヤ49:15-16>には、私たちに向けられた神の愛がよく表れています。「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」と神は言われています。
  また、<第一ヨハネ4:9-10>に「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」とあります。
  神は愛そのものであられます。罪人である私たちのために、ひとり子イエス様をこの地上に遣わしてくださいました。そして、あらゆる美しく尊いもので天国の場所を備えて、一日を千年のように私たちを待っておられます。ほんの少し心を開いても、神の細やかで豊かな愛を感じることができます。

3. 肉の愛

 自分によくしてくれて、利益になる人を愛することは、神を知らない人や悪い人にもできます。うわべではもっともらしいけれど、実はまことでない、偽りの愛をするのです。これは、時間が流れれば変わってしまい、ささいなことでも簡単に壊れてしまう、肉の愛と言えます。肉の愛は、歳月が流れて状況と条件が違ってくると、変わります。自分の利益に従ってああしたりこうしたり、簡単に変わるのです。相手からもらってこそ与え、自分にとって利益になってこそ与えるのです。このように、自分が与えただけ相手からもらいたがって、相手がくれないならむなしくなって惜しくなるのは、すべて肉の愛です。
  親子の愛だけ見てもこれがわかります。親が最善を尽くして子どもの世話をしながらも、つらいと言わないのは、子どもを愛するからです。自分がおいしいものを食べて、良いものを着るより、子どもに良いものを与えたいと願うのが親の心です。しかし、親が子を思う一方には、たいてい自分の利益を求める心が隠れています。まことに愛するなら、自分の利益を求めないで、子どものためにいのちも与えるべきでしょう。
  ところが、自分の利益と栄光のために子どもを育てる親がどんなに多いでしょうか。「全部あんたのためにこうしてるのよ」と言うけれど、自分の心を満足させたり、自慢するために、自分の思いどおりに子どもを引っ張っていこうとすることが多いのです。子どもが進路や配偶者を選択する時も、親の意向と違ったら反対して、むなしくなります。結局、子どものための献身と犠牲が、代価を期待する条件つきの愛だったことを物語っているのです。
  子どもが親を愛する心はどうでしょうか? 長患いをすれば孝行息子はいなくなるという言葉のように、親が老いて病気にかかれば、無視して面倒くさがります。忙しいという言い訳で、離れている親に安否の電話一本もなかなかかけません。自分の子ども、自分の生活が中心で、ますます親には無関心になります。しかも財産やお金を要求して、断られるなら憎んで、ひどい場合は親を殺害するという、人の道から離れてしまった子どももいます。
  それなら、友だちとの愛はどうでしょうか? 固く信じていた友だちの裏切りで、ひどく傷ついたりもします。ある場合には、急にお金が必要だと、友だちに大金を貸してくれるよう頼んだり、保証人になってくれと言います。もし友だちが断るなら、裏切られたと感じて、仲が疎遠になります。
  本当に友だちを愛するなら、相手を苦しめません。もし不渡りを出せば、保証人になってくれた友だちと家族が苦しむことは明らかだからです。しかも神はみことばで、信仰の兄弟間でお金の取引きをすることや、保証人になることを禁じておられます。これに聞き従わない場合、サタンが働くようになって、大変なことが起きるのが常です。
  このように、肉の愛は自分の実利を追い求めて、益がなければ遠ざけてしまいます。したがって、皆さんは肉の愛でなく、相手の利益を求めて真理を喜び、永遠に変わらない霊の愛をするようお願いします。


●まとめと適用
1. 霊の愛とは何でしょうか?


2. 肉の愛とは何でしょうか?



●今週の課題
次回は「愛の章」の二回目「霊の愛の重要性」です。自分に愛があってしたと思っていたことでも、神様からご覧になって愛でなかったことはないか、考えてきましょう。

●「用語」を知って力にしましょう!
 「石投げ」 とは? 革や布に石を入れて回し、標的に向かって石が飛んで行くようにする器具である。これは羊飼いや軍人たちの武器として使われていた。ダビデは石投げでゴリヤテを倒したし、ベニヤミン族から選んだ七百人の左ききの精鋭はみな、一本の毛をねらって石を投げて、失敗することがない者だった(士師記20:16)。


     << 愛の章1 >> 次へ(2)→
←トップへ戻る ←聖書の学びへ戻る